いかすみのひとり言

興味ある事、気になる事の防忘録

部埼灯台

安永6年(1777年)、豊後に生まれた太兵衛は、誤って友人を殺してしまう
このことがきっかけで僧侶となり
天保9年(1838年)高野山へ向かう途中、この場所が航海の難所と知り
亡くなる嘉永3年(1850)までの毎夜山の上で火を炊き続けました。
托鉢による僅かな、収入も一食分の食事を残し薪を工面する
清虚を村人は「一食貧僧」と笑っていましたが
やがて、この行いは小倉藩主、下関船問屋にも伝わる事となり
清虚没後は、村人によって受け継がれました。

以前、部埼灯台一般公開に来た時は無かった、僧清虚火炊場跡と近代化遺産プレート

明治5年(1872年)九州で3番目に建てられた洋式灯台
技師はイギリス人、ヘンリー・ブラトン
当初の灯光は三頭不動レンズによる『不動光』だったそうですが
明治28年フランスから輸入した回転レンズに改められ『連成不動閃白光』を発しています
ブラトンは、7年間の日本滞在で28の灯台を建設し「日本灯台の父」よばれ
部埼灯台は、現在見ることのできる灯台として九州で最も古いものだそうです
左は潮流信号灯、一般公開の日にはこちらも内部見学できました。

この他、建物跡が残っていますが灯台守の官舎があったそうです。
清虚の火炊場は、山の頂上付近にあったらしいですが、現在は消失してありません
灯台の少し上には腕木式信号機がありましたが、稼働はしていない感じ?
1777年より2009年に至り、これから先も航海の無事を守り続けていきます。


僧清虚のお墓と復元火炊場跡以外にも松明を掲げた、清虚像があります
ヒヨドリの渡り観察で訪れ「あの像は何?」と思った方も多いのではと思います。


参考文献:北九州市の史跡ガイドブック